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消えた男『青蛙―せいあ』

 投稿者:堤 葉子  投稿日:2009年 3月25日(水)16時06分3秒
返信・引用 編集済
 


 真っ暗な井戸の中で『青蛙』は大声をあげて叫んだ。
「どんなに跳び上がっても、出口まで届かないんだ。助けてくれ―― 」
 井戸の中の声は、息つくことすら叶わぬように遙か遠い空へむなしく消えていった。
『井中青蛙』本名、千田義樹は京都南部の町はずれにある旧家に生まれた。厳格な父親の
もとで育てられ、ちょっと歪んだ部分はあるが、おとなしい少年だった。

 印刷屋を営む父親は、一日中ほとんど口をきかない仕事一途の人であったが、小学校へ
通う二人の子供を残して妻が他界してから、ことさらに偏屈が目出ちだしたのを気遣った
親戚の世話で、後添えをもらった。
 良くできた苦労人の継母だったが義樹だけはどうしても懐かなかった。やがて弟が一人
できてからはなおのこと、彼は部屋にこもりがちで、本ばかり読む読む少年になっていた。

 そんな彼の唯一の楽しみは、高校で部活に選んだコーラス部の練習の日であった。色白
でやや小柄な義樹は、いつも音楽室の端っこの方に座ったまま、中央に立つ指揮者の方を
見つめていた。
 コンダクターは面倒見がよいので仇名は「オジイ」すらりと長身で、ピアノもバイオリ
ンもこなす先輩である。
別段指示されなくても、部員たちは至って纏まりがよかった。
 タクトが振り下ろされると、途端にきれいなテノールが流れる。義樹の地味な雰囲気か
らは想像もできないような、滑らかで伸びのある美しい声だ。

 義樹が一番輝く時、それはコーラスの一員として思いきり声をはりあげられる二時間だ
けだった。そこには、ソプラノを歌う憧れの律子先輩がいた。遠くから彼女の横顔を眺め
ているだけで、より幸せを感じる一刻でもあった。
 律子はいつも、みんなの真ん中に座っていた。黒く大きな瞳はソロに入るとキラキラと
光る。

得意げな澄まし顔で唇を縦長に大きく開く。
 ソプラノについで、男性パーツへタクトが向きをかえると、律子も義樹の方へと視線を
移した。
頬を赤らめながら歌う彼の美声に、彼女はいつも目を丸くして見せるのだった。
 義樹は練習が終わると、余韻が消えないうちに京阪電車に飛び乗り、帰宅してすぐ部屋
にこもる。うまくいくと学校から家まで三十分とかからない。精一杯吸い込んできた充実
感を、ノートにぶっつけるためにである。

 こうしてペンネーム『井中青蛙』の誕生へとつながっていった。
 成績のよかった兄は、親の期待どおりに歯科医への道を選び、大学病院の勤務医となっ
た。
そして義樹は生涯を鳴かず飛ばずのまま、『井中青蛙』をつらぬく結果となるところだっ
た。
 父の死後、印刷屋を継いだのも当然の成り行きと云えなくもないが、作家志望だった彼
としては想像以上に遠い道程であり、都合のよい暮らし向きでもあった。

 住居が淀城跡近くにあったところから、彼は商売のかたわら郷土史の研究にも興味を持
ち、還暦を迎えた一時期、郷土史家として新聞紙上に紹介され、思いがけない晴れがまし
さを経験した。
 仕事場の写真入りで大きく紙面を賑わしたことで、懐かしい高校時代の友人たちから、
幾通かの手紙や電話をもらった。
その中には律子先輩からの便りもあった。四十年余の隔たりを感じさせないその手紙は、
他の誰からのものより心うずくものだった。

 長い長い沈黙が破られたように幾度となく拡げて眺めた若草色の封書は、ひたすら作家
に憧れた若き日の修作の間に青春時代の証として大切に蔵われた。
 若き日の記憶の彼らも、同じように老いを迎えている今、多少の年の隔たりなどは最早
感じられない。

歳月の重さは人間を鈍感にさせるのだろうか。仕事場に座って、義樹は窓越しに暮れなず
む空を眺めた。遠い目をしていた。それでも穏やかな心地よさが、彼を勇気づけた。
 胡麻塩あたまが急に家族や他人からも―― ただのおじさんではなかったんだ――
と認められたことは、たしかに嬉しいことである。

 四十数年の間にたくさんの小説も書いた。売られることのなかった原稿が、書棚に雑
然と積み重ねられている。生涯の証にせめて一つは大作を世に出したいものと、義樹はつ
ねづね思っていた。
 商売はいたって暇である。食べてさえいければよい式のやり方なので、家族もたいして
期待していなかった。

六十歳になって遅蒔きながら本気で自分のやり残した仕事への焦りを、感じ出したところ
だった。
それが、自分の名前がデカテガと出されたことで、彼の気持ちに一度に火がついたのであ
る。

 書きたいことが、山ほどあるはずだった。職業柄、他人の原稿を見るのはお手のものだ
が、いざ自分のためにペンを握ると、つぎつぎと迷いばかりが押し寄せて前へ進めない。
(これは一体、どうしたことだ)

 郷土史は長年かかって纏めたものだった。こまめに書籍を読み、土地の史跡を歩きまわ
り、老人の話なども丹念に聞いた。
とてもやり甲斐のある仕事だった。それでも本当は、確固たる『小説』をものにしたいと
思い続けていた。

 裏庭の芝生の上に、膝を抱えて座り込んだ義樹は、暖かい日差しの下で瞑想にふけって
いた。
深く暗い井戸の中にズーンと落ち込んでいく意識が、何処かで働いたような気がした。
 彼は今、井戸の中でどっぷりと水に浸かっている。心地よさが息苦しさに変わり、恐怖
が次第に大きくなってきた時、彼は大声で助けを呼ぼうとしていた。
「井中青蛙で―す。助けてくださ―い」

 長い棹竹が誰かの手で井戸の中へ放り込まれた。喘いでいる青がえるを見つけた子供た
ちが、投げ込んだものらしかった。
井戸の周りに、いくつもの丸い顔が覗きこんでいる。のろのろと棹を這い上がってきたの
は、小さな青がえるだった。

命からがら登ってきたにしては、まるでそこにいる子供たちなど知らん顔で、井戸の外へ
飛び出すと、さっさと草むらへ逃げ込んだ。
 千田義樹が倒れて救急車で病院へ運ばれたのは、たった今の出来事だった。そして、彼
が家へ帰ってくることは遂になかった。

『井中青蛙―― いなかせいあ』
 永久保存にしたかった、彼の愛したペンネームである。


                 終





 

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