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三匹のアジ

 投稿者:前田元吾  投稿日:2011年12月 7日(水)20時14分38秒
返信・引用
  「ベルサイユのばら」が爆発的にヒットしつつあった。
 そんな頃である。ひとりの乞食画家が神戸・新開地の奥まった路地にひっそりと軒を連ねたぼろアパートの四畳半一間の部屋で相変わらず焼酎片手にせっせと粗末なダンボールの片くれに執拗な色彩の絵筆を走らせていた。描く絵は決まってアジ三匹だった。所々に積み重ねられた拾い物のがらくたの陰から小さなゴキブリが荒んだ畳の上を這い擦り廻っていたが本人の眼は一心に切り取られたダンボールの面に注がれる。
 これがアントワネットの心じゃけん。このうねりがアントワネットの叫びじゃけん…乞食画家の口元がしきりにぼそぼそと動いている。黒色のチューブをひねり出しながら黙々と筆を運び、四十センチ四方のダンボール紙片はみるみる仄かな漆黒の色合いのなかに次第にそれはぼんやりと輝くように息づいた世界が描かれていく。
 昔彼も宝塚歌劇とは関係があった。舞台の背景画を描いていた頃である。諍いが多かった。色や線について彼の描こうとしている眼の創意と会社側の商業的な美感に隔たりがあった。当時、洋画界で名を馳せていた須磨の松下画塾で絵を描くことに専念したのち師匠である松下の紹介で宝塚の仕事に就いたもののやはり人に使われて絵を描くのは嫌だった。まだ若かったせいもあったかもしれない。しかし生来、審美の追求には異常なほど強烈な個性を持ち合わせていただけに演出側の意向と折り合いがつかない場面もあった。彼にとって舞台の背景画は何かが物足りなかった。単に言われるがままの商業美術に打ち込む自分の姿に常にどこか虚像を見るようでそれは時々我慢できなかった。松下もそんな彼をよくもてあました。三十年以上も前のことだった。
宝塚は漫画の世界に落ちこぼれよった…。 別に宝塚に対する恨みは毛頭ない。乞食画家は筆を休めながら焼酎を一気に呑み干したあとふぅーっと満足げな溜め息を吐きながら絵を眺めてよぎる思いをたぐり寄せるのである。
 今や空前の人気を博した漫画「ベルサイユのバラ」が宝塚歌劇で公演されるや連日超満員の盛況ぶりで来春までの興行続行が決定し、作品の主人公アントワネットを知らないものはいないほどの異常な人気ぶりだった。
彼は新開地の奥まった路地にひっそりと軒を連ねたぼろアパートにひとりで暮らしていた。ネオンの並ぶ売春街とは反対の方角に位置していた。毎日沖仲仕をしたり乞食のような生活をしていて。間もなく還暦を迎えようとする彼の伴侶は常に焼酎と絵筆だけだった。
これがわいの絵じゃけん…相変わらず彼の口元がしきりにぼそぼそと動いている。やがて描いている三匹のアジに光沢が宿り、その緑色の澱む魚の大きな眼に天井の裸電球の淡い影がちらちらと反射した。彼の絵筆はさらに丹念にその影の上に色彩を重ね続けた。これが誰にも制約されない色じゃけん…どや、このうねり…まるで「ベルサイユのばら」に酔いしれる世間に向かって叫ぶように絞りだすとまた焼酎を呷った。
三百枚目の三匹のアジが完成した。何の変哲もない魚が三匹並んだだけの構図ではあったが一枚として同じ絵はなかった。しかし、すべて黒を基調とした色合いのなかにひからびてはいるが切れ味があり、それは腐敗しているようで凄まじく燃え上がるような審美を放っていた。ほとんどは拾い集めたダンボール等が彼にとって画布となり描き始めてから四ケ月目を迎えようとしていた。
 乞食画家の名前を矢野一雄といった。

ぎしぎしと階段の踏む音がして誰かが上がってくる。通い慣れた足音だ。薄暗くて朽ち果てたような狭い廊下に肌寒い晩秋の冷気が忍び寄っていた。
「なぁーんや、居るんかいな」
 娼婦の真知子だった。開けた扉から半分顔を覗かせしばらく佇んだあと躊躇することなくずかずかと狭い四畳半の部屋に入り込んできた。
「寒むなったなぁー」
 真知子はマニキュアを塗りたくった細い指を揉み合わせながら肩をすぼめて擦り寄ってきた。
「こおへんから迎えにきたんや。早よう、みな待ってんでぇ」
 酒の匂いが微かに洩れ、急いで上がってきた息の乱れがまだつづいている。
「せんせ、早よう」
 彼女は矢野の肩に覆い被さるようにもたれかかった。矢野は振り向きもせずただ黙ってたった今出来上がったばかりの三匹のアジを眺めつづけるのである。
「なんやそれ…何描いてはんの?」
 真知子の怪訝な溜め息が矢野の耳元で鳴り小さな厚紙のうえに描かれた絵を覗き込む。それからしばらく黙ったまま彼女はどぎついアイシャドウを瞬かせた。
「アジや」
「アジ?」
 真知子は両腕を矢野の首に回しぴったりと抱きつきながら眺めている。
「そうや三匹のアジや」
 きつい香水の匂いがいつものそれとわかる真知子のほてった体を感じさせた。出来上がった余韻が別のところで隙間を拡げ俄に官能が入り混じってくるのである。白い腕とほんのり酔った息遣いを聞いていると完成した満足感と同時に今は真知子の肉体にのめり込んでいればいいのだと思った。もう自分も歳をとった。昔みたいに呑んだくれて元町の酒場を荒らし毎晩違った女の宿で寝泊りする精気も消え失せていた。
「どや分かるか?」
 矢野の口元に緊張から解き放たれた笑みが広がる。新しい焼酎を注ぎひとしきり美味そうに呑むのである。昔は別れた女性の性器を描きつづけたこともあった。しかし今眼の前にしている単調な図は老い盛る魂の辛辣で根強い追求の過程が投影されていた。部屋の壁やすでに無造作にしまい込まれているダンボール紙の一枚一枚に描かれている絵はみな同じ三匹のアジとはいえそれぞれが違っていた。その絵の与える郷愁や哀感や庶民性といったものがそれぞれの彩りや絵の具の塗り上げられた質感の削り方ひとつでそのかたちの濃淡を区別し陰影にも個別的な別物を生み出していて同じものとしての印象をまったく与えていなかった。
「へえー、えらいひからびてるなあ。そやけど何となくアジに見えるわ」
「そやろ。これで三百枚目のアジや」
 真知子は少し驚いたように矢野のうなじに短い息を吹きつけて感嘆した。焼酎の入ったコップを握った矢野の澄んだ眼の輝きと虚ろに凝視する真知子の視線がしばらく出来上がったばっかりの黒光りする小さなダンボール紙の一面に集中したまま動かない。擦り切れた畳の上をゴキブリが通り過ぎていくのも二人の眼には写らなかった。
「黒く光ってるなあ…」
「よう出来てるやろ。わいのとかわらんぐらい黒光りしてるやろ、どや」
「あほいうて」
 真知子は思わず吹き出すようにして眼を叛け白い腕で矢野の頭を突いた。三十路女の娼婦が一瞬恥じらうのである。
真知子はこの新開地界隈の売春婦のなかではひときわ変わり者で通っていた。誰も知らない子守歌を知っているのである。四国、鳴門の生まれである矢野にとってこの子守歌の旋律は妙に心に刺さった。哀しい音色である。真知子は島の子守歌やと言った。八十七歳で死んだ曾祖母に習った歌だとも言った。いつも一緒に呑む聚楽館前のバーで顔馴染みの仲間がこの歌を歌う真知子を眺めて静まり返ったことがある。矢野がアジを描き始めていた頃の出来事だった。
「なんでこんな魚ばかり描いてはんの?」
「さあ、分からん」
「そやけどうまいもんやなあ」
「あ、そや。忘れてたがな。メール画廊の山さんがこの間来てせんせにぜひ知らさなあかんことがあるいうてはったよ」
「何をや?」
「なんやったかいなあ…。順ちゃんに聞いたら分かるわ。そやから早よう行こ。みんな待ってんのやで。早よう、早よ独居せんせ」
「山村はんは今日は店に来てへんのか」
「来てないけど順ちゃんが知ってる」
 絵から離れた真知子はしきりに矢野の背中を押すのである。メール画廊だけは矢野にとって唯一の理解者だった。この神戸で初めての個展を開いてから様々な憂き目にあってきたがごろつきや上品ぶった商業主義をもろにぶつける画廊主たちのなかで山村だけとはうまがあった。
「ええ話かいなあ」
「ええ話や」
 手をひっぱられてやっと立ち上がった矢野は真知子の眼を食い入るように睨みおどけて白い歯を見せるとさらに残った焼酎の一滴を流し込み真知子を引き寄せてそのふくよかな尻を撫でた。
順ちゃんはベトナム反戦の闘士だった。国立大学に入っていながら学生運動に没頭し結局単位も取れずに中退してしまった。聚楽館前のバー「まどか」に学生時代からよく呑みに来ていていつのまにかママの久恵と恋仲になり現在は店のやりくりをひとりで任されていた。久恵は三宮にもう一軒の店を出し「まどか」にはたまにしか顔を見せなくなっていた。
「ママは来てるんかいな」
 ぼろアパートの出口で靴を履きながら矢野は真知子に尋ねた。そのとき玄関のガラス扉が不気味な音をたてて開き、入れ替わりに薄汚い野良猫が外から入ってきた。きゃあーと真知子が叫び声をあげる。矢野はその猫を追い払おうと手を振り上げたが足がよろけて前のめりになり猫は素早く擦り抜けて暗い階段のなかへと走り去った。
「嫌やわ。せんせ酔ってるんかいな」
 真知子は抱きつくようにして矢野の肩を支え、外に出て歩きだした。きつい香水の匂いに再びむせながら「あほ言え、酔うてるかえ」と矢野は言った。
 頭のなかには完成した三匹のアジの影が棲み込んでいた。三百枚目の余韻がまるでひとつの秘蔵を制覇したような微かな満足で煌めいていた。誰にも分からない真理だと思った。薄暗い露地に肌寒い枯れたネオンがゆるく漂い売春宿が軒を連ねた一角を急ぎばやに二人は通り過ぎるとやがて広くて明るいネオンの降り注ぐ聚楽館前の大通りに出た。
真知子の乳房をまさぐりながら信号の手前で立ち止まったとき矢野は煙草を取りだして火をつけた。そのときふいに真知子が尋ねた。
「なんでアジみたいなもん描いてはんのん?それも三匹」
 同じことを言った。
「そこにアジがあったからや…」
 闇のなかに吸い込まれていく紫煙を見送りながら矢野はつぶやいた。

 バー「まどか」にはいつもの常連たちが騒いでいた。
「いらっしゃい。遅いじゃないですか」
 順ちゃんがカウンターのなかから親しみのこもった声を投げかける。二十九歳の彼もこのところすっかりマスターぶりが板についてきた。
 久恵は来ていなかった。カウンターの前によろけるように座る。真知子がくっつくようにその横に腰を掛けうしろの狭いボックス席に向かって「やっと連れてきたわよ」と苦笑いを送る。まだ大きく肩を弾ませていてその豊満な乳房が微かに揺れているのである。
「先生、何してはったんですか。こっち、こっち」
 木村珈琲店の支配人や国際劇場の刈田らがしきりにカウンターの二人を手招きする。明美と千夏の賑やかな笑い声もそれに混じりいつもの酒盛りの饗宴だ。
「相変わらずご機嫌ですね」
「そんなに呑んでへんよ」
「このところちょっとお見えにならなかったですね?」
「あほ言え、たった三日や」
 順ちゃんが眼の前に水割りを置きながら、自分のぶんも一杯注いでやがてグラスを合わせるのである。
 うねりがある。グラスの淵に澱む曇りが次第に晴れてくる大きなうねりを感じた。その滴の広がりがいましがた射止めた三百枚目の重圧感から解放された優越で満されていた。己れにしか分からない極致である。今や画布さえ買う金もなく拾い集めたダンボールの厚紙にしか表現することの出来ない貧窮にあってこのうねりは確かな手応えを感じる。このうねりに忠実に生きていればそれでいいのだ。
「ママは?」
「さあどやろな」
「むこうも忙しいのやろな」
「ええ、おかげさまで」
 順ちゃんの顔に笑みが浮かぶ。
「順ちゃん、ほら忘れたらあかんがな。メール画廊の山ちゃんのことづて。せんせに言うといていわれたやろ」
 真知子が思い出したように順ちゃんに催促した。
「そやそや忘れてた」 順ちゃんは急いでカウンターの下のあたりをごそごそとそれを探すふうである。
「なにしてんのん先生、早うこっちきいな」
探しているあいだに千夏がカウンターまでやってきて矢野の肩を揺すり、甘い吐息を吹きかける。千夏は刈田の国際劇場で踊っているヌードダンサーである。均整のとれた肢体がいかにも艶かしい。
「分かった分かった」
 矢野は千夏の手を握り返しながらしばらく腰を下ろしたままであったがようやく煙草を消してよろよろと立ち上がった。
 ボックス席に移動すると刈田が拍手をして出迎えた。矢野より五歳ほど若いはずなのに頭はすっかり禿げかかっていた。隣に座る明美は自称女子大生のホステスで年齢は常に二十歳が口癖の正体不明の女である。木村珈琲店の支配人は四十代で刈田より若かった。競馬が生きがいのような男だが矢野の破滅人生の語りぐさに魅せられていつのまにか酒盛りを上げるメンバーに加わっていた。国際劇場も木村珈琲店も聚楽館前の大通りから東に入った歓楽街のなかにあり「まどか」もそのすぐ傍だった。
 刈田も木村も矢野の描いた絵を見たことはなかった。ただ時々訪れるメール画廊の山村の話から矢野が画家であることは知っていた。しかし昔宝塚歌劇の舞台の背景画を描いていたなどということは到底知る由もなかった。毎晩通っているうちにいつしか三人は顔馴染みになり矢野自身も木村珈琲店や国際劇場へ時折、顔を見せたりしていた。
「先生ここしばらく見まへんでしたなあ」
「ほんまどこか行ってはったんですか?」
 二人はすっかりいつもの陽気なほろ酔い気分に浸り眼を弛ませて笑っていた。
「行くとこなんかないがな」
 矢野が苦笑いをしながら答えているとそばから真知子が「せんせは絵を描いてはったんや」と言った。
「へえー一度見てみたいな先生の絵。どんな絵を描いてはんのでっか?」
 刈田が興味ありげに尋ねた。そこに順ちゃんが叫ぶようにしてこちらに向かってきた。
「ありました、ありました。これです」
 一枚の封筒が矢野に手渡された。
 封を切ってなかを覗くと矢野に宛てられたメール画廊の画廊主山村からの手紙が入っていた。内容はこのあいだ開いた個展のことが書かれてあり、ある女性随筆家がひどく心を打たれて一度会ってみたいと先方が言っている旨が報せてあった。そしてその女性の名前と連絡先が記してあるのである。
 矢野は真知子の肩を撫でた。彼女の匂いに混じってその文面の奥に潜むやがて沸き起こってこようとする未知の躍動に耳を澄ますのである。それは得体の知れない熱くて新たな確信のようにも見える。
 話が途中で途切れいつのまにかカラオケが流れている。正体不明の女子大生もヌードダンサーの千夏も酔っ払って踊っている。刈田が何か大声でどなっている。騒音の微睡みのなかで相変わらず矢野は真知子のきつい香水に塗れて柔らかな肌に埋もれていた。
 どこからか流行っている歌が流れ始めた。愛、それは甘くと唄っている。千夏の声だ。
「よし、当分これで決まりや」
 刈田が絶叫する。まさしく今大ヒットの「ベルサイユのばら」のテーマだ。宝塚歌劇の舞台が矢野の脳裏を駆け巡る。
「わいはわいの絵を描くだけや」
 同じことをつぶやき続けた。間違ってはいないのだ。後悔していない。自分の描きたいのは商業主義じゃない。誰にも束縛されない己れの素地の世界に辿り着くことなのだ。
「せんせ。せんせは画家やろ?」
 傍で真知子がぼんやりとつぶやいていた。
「なんやそれがどないしてん」
 矢野はうす眼をあけて喘ぐように答える。
「うちをいっぺんでええから描いてくれへん?」
「…」
 眼の前を木村と明美が抱き合って踊りながら通り過ぎていく。千夏の「愛あればこそ」はまだ続いているのだった。
「ねえ、聞いてんの?」
 矢野は眼を閉じたまま黙りつづけた。

妖しい色が噴き出していると随筆家岡崎律子は思った。絵は観るが飛び込んでくる衝撃に打ちのめされたことはない。語る言葉を失って茫然と立ち尽くした。
 題名に「タウン」とある。原色の威圧感をすっかり包み込んでいるようで他方でその轟音は八号キャンバスの隅々で弾け飛んでいた。夜の街を描いたに過ぎないのだがそれは単なる風景画ではなく世俗の虚勢が抽象化されている。そのネオンの煌きはまるで闇の中を激流する哲理が宿っていた。
 神戸にやってきたのは暮れから始めるある雑誌社の連載を引き受けその取材も兼ねていた。用件も片付きあとはぶらぶら元町通りを何気なく散策していたときふと小さな画廊が眼にとまったのである。わけもなくむしょうにその絵の虚像を破壊し正直さの滲むような色彩に唸りつづけた。
 メール画廊主の山村は彼女が入ってきたときまた芦屋か岡本あたりに住む有閑マダムが豪邸に飾る手頃な絵画を求めにきたのだと最初は思った。彼女の容貌からして少なくとも第一印象はそう思えた。
 狭い画廊に十数点の作品を並べたがこれが今回で七回目になる矢野の個展である。どうせお高くとまる金持ちの眼にはこの酒呑みで喧嘩っぽい乞食画家の絵の真髄は理解できないだろう。山村はいつものようにそ知らぬ顔をして店の隅で美術雑誌に眼を落としていた。
客は彼女ひとりである。山村にとってはこの女性が実は東京に住む新進気鋭の随筆家だとはそのとき知る由もない。
「この絵には何か煩悩を感じさせますねえ」
初めて彼女がポツリとつぶやいた。山村はしばらく呆気にとられた。絵を見入る姿から単なる物見ぐさでない証拠をその発したつぶやきのなかに感じ取った。同じ感嘆の口調でも有閑マダムのようなそれがない。髪をショートカットにした襟足に才女の気風が漂い何となく職業人を匂わせる鋭さが眼光のなかに潜んでいる。これまでまったく出会ったことのない客層だとも思った。
「三宮の夜景ですよ」
 山村はようやく立ち上がってこの女性の傍まで歩み寄った。
「先生の風景画は大体がこんな抽象画です。ちょっと偏屈ものでしてね…ひとりで街の真ん中でベトナム反戦のデモなんかもやってはる人です」
 女性は少し驚いた様子だった。
「こちらにあるのは静物なんですがね。この彩りにしたって凄味を感じさせます」
 山村は奥の方のカンナの花の絵を指差しながら話を続けた。
「鮮やかさはないんですよ。全体に暗いでしょう」
 促されるまま女性はその絵を見た。しばらく今度はその渦巻くような暗い葉脈の構図を眺める。
 もはや単に観賞している眼ではない。眼の前に現われた表現することの出来ない不可思議な渾身の結晶に圧倒されてその眼光がうごめく。
「これがカンナですか…」
 女性の口元から驚嘆しきった息が洩れた。
「魚頭もあります。あっちにあるのがそうです。鮭の頭の部分を描いているんですね。みんな闇の色です」
 言われるままに矢継ぎ早に眼を移さなければならなかった。彼女の心にひとつの決心が彷彿していた。これらの絵すべてに共通している特異な鮮烈と胸を射る不可思議な重鎮なものの深さは他に類をみないとさえ思った。趣きが全然違うのだ。
 岡崎律子は狭い画廊の中央のソファーに山村と向かい合って腰をおろした。この絵を描いた画家のことが知りたかった。
「画材はベニヤ板や家具の引き出しの板、あるいはダンボール箱や菓子折りの箱の紙面ですわ。キャンバスなんて稀にあるくらいでね。みんな捨てられていた拾いもんですわ。昼間はたいてい神戸港なんかで沖仲仕をやってはります。ゆうてももう歳でっさかいきついと思います」
「おひとりで暮らしておられるのですか?」
「ずっーとひとりです。戦後、結婚はされたのですがすぐ奥さんを病気で亡くしてはります。娘さんがひとりいらっしゃったのですが小さい頃妹さん夫婦に預けたまま生き別れになっているようです。ですから今住んではる新開地のぼろアパートにもうかれこれ三十年近くになるのと違いまっか?」
「絵は売れているのですか?」
 彼女が心配そうに尋ねると山村は振り払うような手つきをしながら苦笑いをした。
「なんせ頑固一徹な先生だっしゃろ、今日はここにはいませんが個展を開くときはたいていこのソファーにふん反りかえって焼酎を呑んでいます。見えたお客さんがみんなびっくりしはりますよ。大体金持ちが多いでっしやろ…それに大きな声でしょっちゅうくだをまいているんですよ。それだけで印象を悪くしてしまうんですよね」
 聞いている彼女の眼が細く笑い再び周囲の絵に移る。
「でもどの絵も素晴らしいわ」
「とにかく変り者です。テレビ局の取材もあったりして異彩を放つ港湾画家として全国放映もされた方です。もうすこし商売っ気があればいいんですが。とにかくその日呑む酒代さえ稼げばいいような生活ぶりですよ。アパート近くの聚楽館前の路上で時々二束三文の値段で自分の絵を売ってしまうのですから。ひどいときになるとただでっしゃろ。売るという感覚がないんですなあ」
 いつのまにかこの小さな画廊の隅にある流し台の奥で何か仕度している音が響きどこからともなくすーっと山村の奥さんが現われた。彼女にコーヒーを差出し軽く微笑んで下がった。
「もともとは宝塚歌劇の舞台画を制作していたらしいんですよ。戦前の話ですがね…まあ個性が強すぎるというか血気盛んというかとにかく自分の信念を曲げないような人でね。組織に縛られるような生き方には向いてないんですよ」
 ソファーの前のテーブルに置かれたコーヒーには茶碗の縁にセロファンが丁寧に被されたった今どこか近くの喫茶店から取り寄せたことを物語っている。律子は恐縮した。自分は通りすがりのしかもこの店には今日初めて足を踏み入れた人間なのだ。
「私も先生とはもう十数年の付き合いになるんですが、何というかうまがあうんですなあ。他の画廊はんとはよう喧嘩しはりますねん。毎日昼まから酒呑んでおまけに屑拾いのような格好でっしゃろ。しやからみんな店貸しまへん。そんなこんなでいつも他の画廊はんとは喧嘩ですわ。そんなとき何遍仲裁に入りましたことやら。画廊はん相手だけではありません。街のなかでもよおやりはります。警察の留置場へ迎えに行ったことも度々あります」
 すすめられるままに律子はコーヒーを飲む。幾重にも塗りたくられた彩りの隆起の奥にその酔いどれ画家の根ざす捨て鉢でない結露が光っている。それは最初の「タウン」に魅せられた瞬間から始まっていた。じかに会ってみたい。著述家としての自分のもうひとつの影の部分を照らしだされた思いだ。決心はいよいよ固まった。
「自分の絵のなかにしか自分は存在しない。これが先生の口癖ですわ。まあ先生の絵は近代、現代絵画いずれの流派にも属さない独創的な魂みたいな淵源があります。私が妙にひいきにしてきた勘みたいなところは案外この純粋な魂というところでしょうかな」
 山村は言い終わって満足そうに声もださずににんまりと笑った。
「今は夢中になって三匹のアジを描いていますよ」
「三匹のアジ?」
 律子は怪訝そうに聞き返した。
「そうです。魚のアジ。三匹のアジばかり何十枚、何百枚と挑んでますよ」

冬が近づいていた。六甲おろしが新開地の軒をつらねるぼろアパートの窓を一段と容赦なく叩いた。凍るような冷たい風がひっきりなしに流れ込む。
 まだ真知子は眠っている。矢野は喉が乾いた。起き上がって流し台に立った。足元の電気ごたつのコードを引っ掛けたままである。流し台の蛇口をひねりながら少しふらついた。狭い真知子の部屋の窓がカタカタと鳴る。水を飲み干したあとしばらく眼の前のその小さな窓を眺めた。木枯らしが吹き荒んでいるのか。カタカタと震える窓の外に耳を傾けじっと眼を凝らした。闇のなかで自分の吐く息が白く立ち昇る。そのときむしょうに生き別れになった娘のことを思い出してその静寂のなかに浸り込むのである。
 酒臭いお父さんなんか嫌いと門前払いを食らわされてからもう二十年近くになる。愛媛の妹夫婦にもそのとき以来会ってはいない。当時十歳だった恵は大きくなったことだろう。風の便りで今は結婚をして大阪で暮らしていると聞いてはいたがとてもこんな格好では会いに行けそうもない。
 寒さに震え足に引っ掛けたコードを二度も踏みつけながらやがてこたつの布団のなかによろけるようにしてもぐり込む。震えのため歯がカチカチ鳴る。背中に浴びた冷気は暖まりそうもない。
 酒臭いお父さん…か。涙をためて叫んだ恵の姿が眼に浮かぶ。思い出すのはいつも十歳のときの恵の姿だ。そして今もなお宿りつづける心の痛みは三歳のとき妻を病気で亡くしたあと妹夫婦に預けた後悔でそれが門前払いを受けた日の恵の言葉に象徴されるのだ。
 目蓋は閉じるが眼は醒めていて凍りつくような薄暗い部屋に白い吐息だけが充満する。分かって欲しい。分かって下さい…。脳裏に手を合わせて頭を下げる己の姿が幻覚となって現われそれは無意識に小声を促している。酒は呑むが酒に溺れたわけではない。酔っ払って大声でわめき酔い潰れて路上の真ん中で寝ることもあるがそれはそれで私の性分だから仕方がない。しかしこれだけは分かって欲しい。これまで一度だって道楽で絵を描いてきたことはない。絵画に対する情熱は一貫して揺るぎない己自身の主張が掻き立たせているのだ。
 このあいだ例の山村からもらったメモが心を引き摺っていた。女性随筆家岡崎律子なる人物の出現である。忍び寄る称賛に対する幽かな期待が浮遊するのである。間違ってはいない。漆黒のうねりに統一された己の魂の画像がやがて万人の眼に共鳴を得る機会が訪れようとしている。今だ、三匹のアジ三百枚の区切りを終えて同時に辿り着いた新たな境地。黒い絵の集大成を出そう。それはこの凍りつく朝の音を聞くまでに決心しなければならない結論だったかもしれなかった。
矢野は寝返りをうった。真知子の白い肉体にぬくもりが波打つ。真知子がうわごとをつぶやいたのか突然弦の響きのような鼻息が冷たい部屋にこだまする。抱き寄せると低い音色を奏でたような錯覚が矢野の全身を襲った。悲哀に満ちたその旋律はいつか聞いた島の子守歌を想像せずにはいられなかった。
 寒い娼婦の部屋の窓にやがて朝の光が訪れようとしていた。

師走の元町商店街にまだ人混みはない。八百屋や魚屋の店先に次々と運ばれてくる野菜や海産物の活気を帯びた音だけが漂っている。薄日がアーケードの天井から洩れ、風呂敷包みを手にした矢野の白い吐息が陽炎のように流れいく。
「先生、えらい早いでんな。そんなに急いでどこへ行きはるんでっか」
「ありまっせ、ええ箱が。このダンボール持っていってんか」
 八百屋の親父が張りのいい声で叫ぶ。しかし見向きもしないで通り過ぎる矢野の姿にさすがの親父も手を止め呆気にとられたように去っていく方角を眺める。
 彼らの声は耳に入っていた。しかし矢野の張り詰めた心には不用な雑音だった。頭のなかは今朝決心したばかりの新しい個展の構図が支配している。それには何としても白い画布が要るのだ。七点ばかりの絵を持ち出してきたのも金に換えるためだ。これを白いキャンバスに換えなければならない。行く先はいつもの元町商店街を通り抜けて行く山の手の宗政病院である。
宗政医院はかれこれ五、六年の付き合いになる。院長の宗政信幸が路上でベトナム反戦を唱え一人デモを繰り返していた矢野を知ったのは三宮の繁華街でのことだった。書き殴られた反戦文字の画板を肩から吊し、片手に焼酎を持った矢野に惹きつけられたのだ。それだけではなかった。ふらつく足元には小さな絵が何枚も並べられ「自由にどうぞ。ただしカンパ五百円」とあったことだ。黄昏迫る雑踏で誰も見向きもしない。宗政は粗放な彼のアジ演説よりむしろ並べられた絵に心が動いた。衝動買いには違いないが宗政にとってこのとき初めて矢野の絵を三点ばかり買ったのである。
 それ以後雑踏で一人デモをしている彼を見つけると絵を買うようになり矢野の極貧な生活や孤独な人生観を聞かされているうちに同情したのかやがて定期的に自分の病院に作品を持ち込むことを許可した。ただしそれには条件がありそれは診療時間の始まるまでの朝の早い時間に限られた。患者の手前もあってのことだったのである。
 絵の値段は宗政が決めた。いわば生活費を援助する額で点数に関係なく一定の金額を志として矢野に渡した。絵に対する批評はあまり口にしたことがなくただごくろうさんとだけ言った。宗政の妻は最初は歓迎したが次第に伝わる世間体を気にし始めたのか最近ではそ知らぬ顔をすることが多くなった。同時になぜ宗政がこんなにしてまで名もない乞食画家の絵を蒐集するのかが分からなかった。自分の歳とたいして違わない同世代。何か共通した価値観みたいなものがあるのかしらと思ってみたりもした。本来、絵画に興味を抱いていることは確かでかなりの作品を蒐集していたが今回だけは夫はあまり多くを語ろうとしない。いつものように美術の専門書を耽読する姿や老舗画廊から手に入れる作品の講釈はあってもこの無名の作家の絵を論じることだけは決してなかったのである。
 矢野は息を切らせながら元町商店街を通り抜けるとどぶ川の橋をひとつ渡り朝靄の晴れ渡った坂道を上っていく。この辺りから眺める景色は港町神戸の全景を見るようでいつも清々しい。山の手の高台の通りには外人居住地跡の風情が残る建物が多く今なお異人館通りとしてその異国情緒が漂う。
 眼の前に迫る景色は三十前は赤く焼き爛れた廃墟だった。全体が吹き荒んだ闇の色であり虚無で塗り尽くされていた。終戦後妻を失い三歳の恵を連れて三池炭鉱から神戸に戻ったときは絵筆を持つ情熱さえなかった。あれ以来毎日のように酒を浴びるようになったのだ。すべてが戦争が奪ったとしかいいようがなかった。その闇の烙印は未だ矢野の脳裏に刻まれたままだ。その永遠に消えない色の構図をいつか集大成しようと思っていた。今朝起きたときからこの考えは変わっていない。
 次第に息が荒くなる。もうこの歳では沖仲仕もやっていけないなとふと思う。それに最近腰が痛む。坂道を登り切って顔を上げるとようやく鱗の屋根の建物が見え風見鶏のとんがりが青い空に浮かんでいる。その一間先が宗政病院だ。
 途端に焼酎が呑みたくなった。

岡崎律子が二度目に神戸を訪れたのはその年も押し迫った暮れのことである。矢野は黒い絵の個展を出すべくいよいよその準備に熱中していた。真知子は故郷の肉親が病気で倒れたとかで長崎の五島へ帰ってしまっていたし「まどか」へもほとんど出向かず山村との連絡もしばらく途絶えてただひとり自分のぼろアパートにこもって絵筆に精錬を込めた。
 三匹のアジの執着からようやく開放された新鮮な創意があった。戦争のことや別れた子供とに共通した沈澱したままの悲哀と寂寞を表現したい。それは永遠に刻まれた烙印の色だ。その沈殿したままの心の色のなかに求めつづける構図と彩りが交錯する。
 例の女性随筆家が再び東京からやってくるという話は山村から聞いていた。しかし矢野はそれを聞き流しただけだった。山村は今度は直接、先生に会いにくるという彼女の連絡を伝えていた。今日がその日だった。
 八号キャンバスを撫でていた絵筆が突然止まる。格闘する眼に心の動揺が反映しているのだ。はたして会うべきか。微かな躊躇が生じている。自分の作品に鮮烈な感動を受けたという女性随筆家のもうひとつの幻影が絶え間なく眼の前を襲う。それは破壊されそうな別の批評家としての幻影が立ち塞がるのだ。四十代と聞いたが彼女の書く本は今かなり売れているらしい。
 がらくたと絵具の山で囲まれた小さな砦に暮れゆく年の瀬の慌ただしさが影を落とす。とにかく腹に何か入れなければならない。矢野の腰はようやく立ち上がる。三平へ行ってラーメンでも食べようと思い立つのである。三平へ行けばこの迷いも決断できるかもしれない。狭い四畳半の天井高く積まれた絵のなかから適当に一枚を抜き出し埃を払い終えると丁寧にその絵を風呂敷に包んで部屋を出た。
 元町ラーメン・三平は新開地歓楽街の横丁の路地に入ったところにあり矢野のアパートから十五分程で行けた。もともと神戸の中心はこの新開地あたりにあり聚落館前の大通り周辺には新聞社や県庁などが建っていた。だから昔は上品な活気で溢れていていつも昼時になると新開地の飲食店はどの店も繁盛した。狭い横丁筋に面した六坪ばかりの小さな店であったが元町ラーメン・三平にも連日客が押し寄せて景気がよかった。新開地になぜ元町という名のラーメン屋なのか店を訪れる客は誰一人気付く様子すらなかった。
「久しぶりでんな」
 店の戸を開けると六十がらみの主人の顔が急にほころんだ。他に客は誰もいない。年の瀬の雑踏の騒音が店のなかに入った途端に遠くに消える。
 ここの親爺とは長い付き合いだ。「まどか」で呑んではここでラーメンをすする。戦後の臭いと港湾労働の疲れにまみれながら裸電球の下でよく遅くまで話をした。親爺は戦争のことや闇市の手口の狡猾さばかりを話題にしていた。話を聞く酔った矢野の脳裏には日々自暴自棄の炸裂した戦争への怒りが走るのみであった。中国での戦火を思い出すとき決まってある光景だけは忘れることが出来なかった。自分の放った弾丸の音と倒れる少女の背中がいつまでも心の襞に残っていた。少女の短い叫びが蘇ってくる度に話す主人の声は遠退いた。
「どないや景気は」
 あいさつ代わりにつぶやくと矢野はカウンターの前にゆっくりと腰をかけた。
「あきまへんな。ご覧のとおりでんがな。そいでも先生のおかげで今だに来るお客さんがいまっせ。なんせテレビの影響はどえらいもんですわ」
 何も注文をしないうちから親爺の手はさっそく支度に取りかかる。油で汚れた壁には一枚の絵が飾ってある。主人はその矢野の描いた絵を自慢していた。昔放映された矢野を紹介する番組のおかげで一時は脚光を浴びたこともあった。
「今年も暮れるなあ」
 持ってきた風呂敷包みをときながら矢野はため息を洩らした。迷いをまだ引き摺っていた。岡崎律子に会うべきか。自分自身の追求する絵の境地を説明するには到底言葉では表現できないような気がするのである。
「去年ほどではないにしてもやっぱり不景気でんな。それにしても去年の石油ショックはひどかった。砂糖から醤油からどこへ行ってもない。ひどいもんやった。商売人が走り回ったがな。あんなパニツクはありまへんな」
「すんまへん。これで頼むわ」
 矢野は持ってきた絵をカウンターの上に置きながらいつもの調子でつぶやく。
「よろしま」
 親爺は忙しそうにして置かれた絵に眼もくれようとせず愛想よく返事をする。湯気がたちぼりやがて麺がほぐれていくのを矢野はじっと眺めていた。芸術とは表現でしか語れないものだ。審美の追求に理屈はいらない。会ってみよう。自分自身の打ち込んだ魂を少しでも理解してくれようとしているのだ。瞬間に決心は固まった。
「へい、出来上がり」
 親爺の声が跳ねると矢野は申し訳程度に頭を少し下げた。しばらく元町ラーメンの味に浸るのである。
「それにしても珍しいでんな。きょうは酒が入ってまへんな。なにかあるんでっか」
 苦笑いをする親爺の怪訝な眼が音をたててすする矢野の頭上から注がれる。
「べっぴんに会うんや」
「へえー。それはそれは」
「それにしてもこのところ腰が痛うてな」
「?」
「朝から呑むのは控えとんのや」
「大丈夫でっかあっちのほうは?べっぴんに会うというのに」
 親爺は目を細めて笑いながらカウンターのうえに置かれた絵を手にとり冷やかした。

暮れゆく神戸の黄昏が蒼く輝いていた。ラウンジから見下ろすネオンの広がりがかって表現したことのない彩りの構図であった。
 眼の前に初めて向かい合う女性随筆家の息遣いを感じとったときそれはたった今自分のとった選択が現実の姿となって実現したことを意味していた。
「初めまして。岡崎律子と申します」
 女性は緊張しながら少し微笑んで丁重にお辞儀をした。矢野は中腰になりながらどうもと口籠もって頭を低く垂れた。しばらくの沈黙のあと律子は恐縮した趣きを漂わせながら静かに言葉を運んだ。その響きに彼女の方でも予期しない熱い感激の思いがこぼれ出ていた。
「私は十年ほど本を書いております。未熟ですが一応エッセイストとしての賞も戴きもの書きとして追われる毎日を送っています。そんななかこの秋取材で神戸を訪れましたとき偶然にメール画廊の前を通りかかり先生の絵と初めて出会ったわけでございます。何というかそのとき先生の絵に魅せられた衝撃は言い表わすことが出来ません。画廊主の山村さんから色々とお話は伺いましたが聞いているうちにぜひじかに先生にお会いしてみたい、会って一度お話をしてみたいと思った次第でございます。勝手なご相談を持ちかけ申し訳ございません」
 流暢で理知的な語り口は多少遠慮がちに震えながらもその語気の裏側に正直に奮い立った真意がこもる。矢野の眼に狂いはなかった。迷いはその彼女の渇望に融合され自分の魂に共鳴してくれる喜びに満たされていた。
 しばらくの沈黙が眼の前に置かれた琥珀色の水割りに澱み上気した矢野の心をまごつかせた。
「誉めて戴いて光栄ですわ」
 矢野は頭を低く下げる。
「しやけど私はしょっちゅう酒呑んでまっしゃろ…」
「ええ。山村さんから伺いましたわ。ずいぶんお好きなようですね」
「しやから信用されまへんねん。おっちゃん酒呑んでるさかい信用せんゆうて」
 矢野の眼が笑った。律子はそれは矢野が行なったベトナム反戦の一人デモのことを言っているのだと思った。しかし何気なく薄暗いラウンジの窓辺を眺めながら律子は躊躇した。一人デモをひっくるめて他に意味することを言ったのではないか。ホテルの最上階から眺めるネオンの瞬きに矢野の描いた風景画「タウン」の抽象的な交錯したネオンが重なる。
「娘にもそれで縁切られましてな…」
 苦笑いが長いため息混じりのつぶやきに変わった。律子は矢野のうつむいた姿を見たとき赤裸々な矢野の孤独感に引き込まれていくような気がした。煌めいてみえた「タウン」のネオンは娘との邂逅を願う矢野の後悔と悲哀の色だったのだろうか。静物の「カンナ」や「魚頭」にも光る共通したうねりの深淵は果たして孤独感だったのだろうか。
「私はね私で捉えている私自身の絵を描いている。ただそれだけなんですよ」
 矢野はグラスを持ったまま夜景を一瞥してそれからおもむろに律子の顔を見ながらしんみりとして言った。
「描いても描いても描ききれないものに向かって描いてるんですよ。分かりまっか?」
「えっ?」
「私の絵は戦争の色なんですよ。人間を不幸にするものに対する反抗の色なんです」
 鋭い眼光が濁っているようで清澄な穏やかさが律子を射る。矢野の情熱がその語尾に含まれていた。「タウン」のネオンの交錯と「カンナ」や「魚頭」に表われた闇のなかの一条の隆起の意味がこのとき律子の胸を貫いていた。
「沁みついてとれない戦争の色ですよ。中国戦線で体験した残酷な影と終戦直後の神戸の焼け爛れた廃墟の色ですよ」
 普段大声で喚くように喋る矢野の姿が今夜はなぜか消え失せていた。
「でも先生の絵には魂が宿っていますわ。うまく表現することは出来ませんが暗い翳りのなかに荘厳で柔和な感動を呼び起こすような魔力があります。私は文章を書くうえで常にその表現に悩んでいるのですが先生の絵に触れて何か悟らされたような気がいたしました」
恐縮するかのよう矢野は小さく頭を下げた。しばらく水割りを口にしては今度は小刻みに首を横に振って謙虚な眼差しを律子に向けるのであった。
 風もない外の夜景に静かに忍び寄る夜のとばりの音がこだましていた。幾世も走り抜けたような不滅の静寂が摩擦する音なのか。二人はまるでその音を聞き入るように耳を傾けていた。
「美術って一体何のためにあるのかしら。絵は何のために描かれるのかしら」
 律子はネオンの海を見下ろしながらつぶやいた。さざ波のようにひしめくネオンの群れが様々な絵の在りようにも思える。
「そうやねぇ…わいら学問ないさかいどない言うたらええか分からんけどやっぱり真理を追求するためにあるのんと違いますか」
 矢野は遠くを見つめるようにして静かに答えた。

正月になった。慌ただしく過ぎ去った年末から年始。律子はやっと田園調布の自宅でひとりの時間をもっていた。
ソファーに身を沈めながら、「蟹の手」の絵をじっと見つめる。ただこうしていることが今の自分にとって必要なことのように思われた。絵を見ているとあらゆる迷いと語彙の選択に惑わされている自分の虚構とが剥がされていく。暮れに矢野の口から発せられた真理のためにという感想はあまりにも意外でその多くを語らない表現方に彼女の心は熱く揺り動かされたのである。この「蟹の手」を見ていると矢野の焼け爛れた戦争の痣よりもなぜか新生しようとする活気ある息吹が隅々まで行き渡っているかのような躍動を覚える。彼の真理とはこの脈打つ情熱かも知れない。激しく彩られた燃えたぎるようなその真紅の折れ曲がった足にそれは燦々と輝いている。そして焔のような赤が一面塗りつぶされた黒色の背景を見事に浮き上がらせているのだ。この調和こそ矢野の求めているもののようにも思えてきた。
東京に戻ってきてから律子は急いで出版社に次に書く作品のテーマを変更した。暮れの神戸をあとにしたとき数ある矢野の作品のなかからこの「蟹の手」を購入したのもそんな状況を自分の心のなかで察知していたからである。別にこの作品だけを特に選んで買ったわけではなかった。否、購入したのではなくあの夜たまたま矢野がプレゼントしょうと持参してきた作品のひとつであった。矢野は別れ際に気に入ったのがあればと見せてくれたそのなかのひとつに「蟹の手」があったのである。素朴で純粋な老画家の誠意に益々打たれた律子は逆にこれを購入したのである。
年が明けてからすぐその変更した題材について書かなければならなかった。とりもなおさずそれは矢野との出会いを通して彼の作品に触れた感動を記すつもりでいた。元旦だけ鎌倉に住む一人暮らしの母親のところでゆっくりと過ごしたあとその「神戸の老画家」という随筆に取り掛かろうと自宅に戻ってきたのである。今度書く作品について神戸の出来事と自分の感動とを母親に伝えると母親はいつも言うように「人生には人それぞれ計り知れない苦労や悩みを背負って生きているのね」と同情した。それはあたかも律子にとってあらゆる真髄は言葉では表現できないことを示唆されているかのように受け取れた。
会えばいつも早く結婚しろと言われるのが嫌で早々に二日には独り構える田園調布の豪邸に戻り二十畳もある居間で「蟹の手」を眺めつづけるのである。確かに気がつけば自分はもう既に四十を超えていた。女性文筆界の寵児に祭りあげられてから十年間があっという間に過ぎ去った感じがする。その間結婚を考えなかったわけでもなかったが凡そその縁がなかったのかもしれない。父親を早く亡くしたため苦労した母親の傍で暮らしているうちに自然とそうなってしまったのだと思うのである。

矢野が突然現れたのは三が日も過ぎた翌日のことだった。
「独りで居るとどうも心もとのうて。えらいすんまへん」
現われた矢野の姿は見違えるほど輝いて見えた。突然静かな律子の部屋に新春の談笑が洩れた。暮れに出会ったあとすぐ届いた手紙に近々黒の集大成と名をうって個展を出す意気込みが綴られていたことを律子は忘れていなかった。
「まさかおいでになるとはびっくりしたわ。でも先生どうぞゆっくりとしていって下さい。あれからまだまだ先生とお話したいこともございますし」
「ついお言葉に甘えて来てしまいましてん。正月はやっぱり人恋しなるもんでんな」
老画家は背を丸めて遠慮がちにうずくまる。豪華なシャンデリアが今度は暮れの神戸の夜景の時とは対照的に二人を見下ろす位置にあった。
「黒の集大成は進んでますか?」
ビールを運びながら律子は尋ねた。
「ぼちぼち準備を始めてます。すんまへん、何や正月早々どあつかましいようなことしまして」
「かまわないわよ。どうぞ遠慮しないでやって下さい」
言葉に謙虚さが漂っている。矢野は照れていた。神戸で見せた仕草さはここでも変わらなかった。それと彼の眼の輝きを見ていると生活は低きにして志高く生きようとする彼の姿勢が改めて確認できた。
律子は娘に縁を切られたという彼の話を思い浮かべていた。正月であろうが実の子に会えないでいる孤独なこの画家の運命を思うと母親の言った言葉が蘇ってくる。
「娘さんはお元気ですか?」
「おかげさまで元気でやっているようです…孫も」
「え?お孫さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ。そのようです。離縁されましたさかい会わせてもらったことはありませんが風の便りで聞いてます。そいでもやっぱり正直な話、孫をひと目見てみたい気いしてなりませんねん。私ももう年ですし…」
「いつか会えますわよ、きっと」
「今年で私も還暦を迎えますねん…」
しばらく沈黙がつづく。律子は静かに「蟹の手」の色彩を呼び起してみた。彼の運命を変えたといった悲惨な戦争の色はあの絵には微塵にも感じられない。鮮烈な生命力が隆起する絵だ。極貧の忍耐が培った形象なのか。しかし一方でそれはまさに天涯孤独に対する激しい反動が実は別れた子への限りない憧憬として噴きでているのではないか。何故かポツンと還暦を口にした矢野の横顔にそれは象徴されているかに見えた。
「あ、そやそや忘れてたがな」
矢野は思いだしたように持ってきた頭陀袋を引き寄せてなかを覗いた。
「何も差し上げるものがなくて…」
つぶやきながら真っ白なキャンバスを取り出し、ついでに二、三本の絵具のチューブをテーブルに置いた。ビールを再び呷りながら一気に何かを描き始めたのである。それは律子にとってあっけにとられる一瞬だった。予期したわざを確かめるかのような期待がその白布に吸い寄せられるのが分かった。
「願いなのです。これは本当に世界の願いなのです」
ぶつぶつ口篭もって矢野は色のついた自分の指を白布に塗りつけていく。絵筆で描くのではなかった。鮮やかに絞りだされた黄色い隆起がやがて線から形を築き上げ忽ち姿を生みだした。膚で脈づく表現が直に眼の前の白布に乗り移ったと考えてよかった。それだけではない。次にポケットから煙草の銀紙を取り出しそれを千切りにして白布に描かれたその形の上に貼り付けられた。
「戦争はいけません。皆を不幸にする戦争はいけません」
独り言は朗読されるかのようにリズミカルに流れてやがて一枚の作品が出来上がるのである。
「はいあげます。私のお年玉です」
完成したキャンバスには見事な平和の鳩が描かれていた。手全体を使って黄色に塗りたくられた背景に「蟹の足」とはまた違う鎮静で穏やかな激流が澱んでいた。銀紙で鮮やかにかたどられた鳩がまるで平和を願うかのようである。ベトナム戦争は確かにまだつづいていた。街頭に立って一人反戦運動をしている酔った矢野の姿が浮かぶ。その銀紙に眩いほど純粋に矢野の心が反映されているようでそれは神戸の夜景でつぶやいた真理という言葉を見事に表現していた。

宗政医院の書斎に煌々と明かりがさす。宗政は書棚から取り出した一冊の専門書に真剣な眼差しを向けていた。やがてそのなかからひとりの人物の名前を見つけると蒐集家特有の喜悦を抑えながら慌てるようにして別の扉の書棚へ向った。急いで何点かの絵画が探り出されていく。中学時代より蒐集されてきた絵画はこの部屋以外にも別棟の倉庫のなかにも眠っていた。やがて、見つけ出した一枚の絵を食い入るようにして眺めたままその場に立ち尽くした。
医師でありながら絵画にのめり込んだ。評論には眼もくれず無名画家のものであろうが自分自身の直感が常に絵を選び取ってきた。今手にする絵が最初読み取った心眼と違わがなかったことが何より誇らしかった。自分に潜伏する絵画哲学がこの絵とつながっていたことを証しする瞬間でもあった。宗政はもう一度机の専門書に眼を移しその現代洋画家の先駆者という記述欄の一箇所を確かめた。間違いない。松下露見とあり、その門下生のなかに矢野一雄という名前が並んでいる。
今は亡き松下露見が関西だとは聞いてがまさか現代洋画家の大家だとは思わなかった。さらに矢野がこの門弟であったとは。彼はそんなこと一度も言わなかった。宗政の眼に最初に出会った雑踏のなかに立つ矢野の姿が浮かび上がるのである。
貴重な逸材である。宗政は改めて何枚かの矢野の絵を見た。勿論彼が港湾画家としてテレビで全国放映されたなど知る由もない。宗政の特異な先見の明が矢野の人間像を最初から捉えて離さなかったのである。
幼少時代初めて触れた松下露見の絵。緑の木立に建つ物置小屋の色彩がいまだに宗政の記憶の奥底に深く刻み込まれている。これまでの人生にこの潜伏していた色彩は幾度となく心の支えになっていたに違いない。三宮の雑踏で彼の絵の輪郭に触れたとき心が動いたのもきっと潜伏していたその自分の源流とが繋がっていたのだろう。
夜は更け白く凍った山の手の高台にやがて粉雪が舞い始めていた。今月末には医学会で出張となる。留守中、彼が訪れたとき粗相の無いように妻にじゅうぶん言っておかなければならない。宗政は正月早々心に決めた。

東京から戻ってきたとき矢野は全財産を使い果たしていた。毛布にくるまいながら毎日窓に降る雪を眺めつづけた。港湾の仕事も体がついていけない。痛めた腰がいっこうに治らずこの寒さでは力仕事をするのも億劫になってきた。焼酎も底をつき三匹のアジを完成させてから砲火の如く決意した黒の集大成の構想も喉を潤す潤滑油が無ければ到底進まなかった。
がらくたに埋もれながら絵筆の止まった魂が切れた酒を求めて浮遊しつづけた。塗り上げられずに中座する具象がたまらなく歯がゆい。もう手の届くところにありながら掴めずその奥行きの構図に色を添えることが出来ないでいるのである。焼酎の一滴が必要であった。
宗政が出張に出かけた日、矢野はいつものように数枚の絵を抱えて宗政医院へ向った。連日降り積もった雪のため坂道を歩くのにもいつもの倍の時間がかかった。医院の玄関に辿り着いたときは既に約束された時間を過ぎていた。宗政の妻は主人からその旨を聞かされていたとはいえただいつもの蒐集家の習癖ぐらいにしか捉えておらず特別な対応で接しようとは露ほどにも考えていなかった。
医院の扉を開けると待合室には既に数人の患者が来ていて診察を待っていた。患者らは入って来た矢野の姿を一瞥し、ひと目でそれとわかる怪訝な視線を向けたあとやがてうつむいて息を潜め合った。受付の窓の上に院長出張中のため云々と書かれた紙に気づいた矢野はもはや自分がここに突っ立っている不用さを知らされた思いだった。上気した汗が何故か意味の分からない恥辱に満ちた熱い火照りに包まれていくのが分かった。
「はい、どうぞ」
受付の若い女の声が矢野の姿をしばらく覗き込んでから黙ったまま奥へ消えた。外へいったん出て医院の裏口へ廻るように指示された矢野は言われたとおりその医院の勝手口の前で待った。やがて表情をこわばらせた宗政の妻が現れ、手にした封筒を投げつけるようにしてつぶやいた。
「困りますわ、約束した時間に来てもらわないと。あれほど言っているのに。診療時間前という約束でしょう?」
彼女の視線に世間体を憚る表情が顕著に表われていた。それは矢野の風采を確実に軽蔑していた。これまでの主人のつづける施しに愛想を尽かしている感じで半ばその腹立たしさも混じっていた。それに今回特別に宗政が残した丁重な施しの伝言も彼女にとっては矢野が時間を守り人目のつかないところで行われていたら何もなかったことなのだ。物乞いをする乞食が病院に来ているという醜聞が患者の口から広まればいったいどういうことになるのか。彼女の高圧的な口調は上流階級のみが住む山の手のプライドをそれとなく告げていた。
高台を下ってから元町通りを抜け一軒の酒場に入ると矢野は何度も自分を包む貧屈の黴の臭いを呪った。貧困と孤独が益々胸中を煽り立て折角挑もうとしている集大成の構図を忽ちのうちに自暴自棄の方向に塗り替えようとするのである。酒の精が宿ると二言目には分かってたまるかと罵声した。脳裏には焼け爛れて朽ちた闇の色が広がり連鎖する自分の辿った軌跡が幾重にも内へ内へと黒く塗りたくられて染まっていくのである。悲哀とも後悔ともつかぬ魂の根源が酒の精によって群がってくるのが口惜しかった。酔うといつも見る幻覚だった。いったい今朝、雪の坂道を上りつつ、けじめをつけようと新たな意気込みに燃えた集大成としての魂とは何だったのか。矢野はすっかり酒精にのめり込んでいった。
「わいも今年で還暦や。わいがやってきたことのおさらいをここらでけじめをつけたろか。どや?お前らに分かるか?」
泥酔は絶叫に変わり酒場から追い出された矢野はネオンのつき始めた繁華街へと流れ込んで行った。
「こらっ、わいのけじめをお前ら分かるか?言うてみい、こらっ」
わめき散らしながら雑踏のなかを突き進んでいく矢野の姿を見て人々は怪訝に満ちた視線を送った。
「なんやその眼はこらっ、わいがどんなけじめを企てているのか分かるっていうんか。いうてみいこらっ」
浴びる視線に対して千鳥足の矢野は全身で自前の反骨を剥き出しにした。やにわに着ている物を脱ぎ始め大声で叫んだ。
「この身なりが悪いちゅんかこらっ、見せたろかわいの魂を。わいが培ってきた魂を」
このとき振り上げた手が後ろからきた派手な格好をした若い連中の顔に当たった。忽ちその数人が矢野を取り囲んだ。

病室の窓に薄日が射していた。
「無茶したら命とりだっせ。チンピラは恐いから気いつけな」
傍らでメール画廊の山村が溜息混じりにつぶやく。矢野は顔を切られ七針も縫う重傷を負った。
「もうすぐ梅の花が咲きよるなあ。退院したら頑張ってその集大成というのやらに打ち込んでや」
三週間の入院も間もなく終りに近づきつつあった。矢野は親身になって見舞ってくれる山村に申し訳なく思うと胸を熱くした。
「山村はん、わいもとうとう還暦や」
とっぴょうしもないつぶやきに山村はすこしあっけにとられたがしばらく間を置いて苦笑いを浮かべた。
「そやったなあ。しやからええ区切りや。頑張って仕上げてや。期待してまっせ」
山村は軽く矢野の肩に触れた。
「あ、そや忘れとった。東京の随筆家先生から連絡があって平和の鳩が各誌で絶賛されたとか何とか言うて…」
「平和の鳩?」
矢野はしばらくたってそれが律子に描いたお年玉のことだと気づくのである。
「先生の反戦運動の魂は本物やともいうてはったなあ」
山村の声を聞きながら矢野は再び窓に眼をやった。薄日の向こうにに塗り上げられずに放置していたその構図にやがて新しい彩りが決定しようとしていた。
ベトナム戦争は終結の二ヶ月前の局面を迎え、「ベルサイユのばら」は記録的な観客動員を博して年明けの公演もその終りを知るところがなかった。

黒い絵の個展は三宮KCCギャラリーで開催される運びとなった。山村の計らいでホールも広く辺りの環境も交通の利便を考えてのことだった。これまで矢野が選んだ場所は主としてメール画廊や新開地界隈の小さな喫茶店だった。それは三宮を始め中心街の多くの画廊主が矢野を敬遠したためだ。理由は彼のふうてんのような格好と常に酒臭い息を吐き散らしていたからだ。
 山村は新しい年が明けるとすぐ矢野から黒の集大成に打ち込んでいる話を聞かされていたが例の思わぬ傷害事件で矢野が入院したため一時は個展が中止になるのではと気をもんでいた。しかし傷の治りも順調にはかどり矢野は三月初めには退院した。今回矢野の作品に賭ける思いには特別なものが感じられそれは最初から自分の画廊よりも別の場所でという強い要望を含ませていた。それを展示するには長く連なった広い場所が必要だった。白い壁の連なりと現代を象徴するような空虚で華やかで前衛的な空間が対照的に必要とされていた。
「何やかや言われても自分の絵のなかにしか自分は存在しない。わいももうすぐ還暦や。この集大成がわいにとってひとつの区切りや」
山村は熱っぽく語る矢野の言葉に今までとは違った画質を期待していた。矢野は出品する数十点の画題と制作の意図とを簡単に述べたあと仄かな新しい期待をその息遣いの端々に匂わせた。新生しようとする精気が漂っていた。山村はここ十年来感じたことのなかった矢野の眼の光を見た。
 三宮KCCギャラリーは山村が以前親しくしていた前衛彫刻家の所有するアトリエでもあった。彫刻家は今は東京にいてギャラリーの運営は残った前衛グループの知人に任せていた。今度出す作品の「三匹のアジ」、風景画シリーズの「タウン」は黒色を基調とした長い連続した配列で静謐な白い壁はそれをより効果的に引き立たすに違いない。このギャラリーこそ今回の矢野の作品群を展示するのにふさわしい場所であると山村は直感した。山村は早速彫刻家に手紙を書き彼の返事をもらうとのそのグループの知人に会って話を進めたのである。場所も若者が押し寄せるには格好の場所にあった。三宮の繁華街を抜けて山の手へ向かうトア・ロードの中腹に位置し周りには洒落たレストランやブティックが建ち並んでいた。山村は多くの若者が矢野の絵を見てくれることを願った。それは裏を返せば個展の開催を間近にひかえたある宵の出来事からも推測できた。
 新開地の近くにある福原歓楽街の桜が満開になった頃二人は久しぶりにバー「まどか」で呑んでいた。順ちゃんがしきりに学生時代の反戦運動の話をしていたとき矢野がいきなり大声をたてて怒った。戦争の悲惨な体験というものはそんな生やさしいもんやないぞと一喝したのである。それはそのまま山村にとって矢野が今回の個展のなかで若者に対して訴えようとしている叫びだとも受けとれた。順ちゃんの言葉のなかの単純な悲劇の捉え方が矢野の心のなかに深く刻まれた主観的な構図を錯乱させたに違いなかった。黒い絵の個展に賭ける魂の真髄がこのとき突発的に出たとしか思えなかった。客観的な表現のなかに真実の色は生まれてこない。自分の作品には決して客観的な魂の飾りはない。その憤りは体験した者でなければ分からない。黒の集大成の基調はすべて戦争で見た闇の歪んでしまった悲哀の原色であったからである。
 これまで反戦運動の話で一度も見せたことのなかった矢野の態度だっただけに順ちゃんは狼狽した。

 軽いテンポのボサノバが流れている。書斎の窓から見る外の景色にようやく春の訪れが感じられる。律子はペンを置きしばらく流れる音色に身を浸したあとさっきから前に進まずにいる原稿の上に視線を落としていた。矢野が怪我を負った事件のことは山村の手紙で知らされていた。哀れでし方がない。「蟹の手」や「平和の鳩」を眺めているとどうしても彼の描いているもうひとつの真実が隠されていそうでそれがもの悲しくてならない。正月早々から取りかかった「神戸の老画家」の随筆の主旨とはいったいなんだったのだろう。どうしても別れたままになっている娘のことをいれなければ「蟹の手」の感動を伝えることはできないのではないか。
 ボサノバは依然つづき彼女の前を漂う。ゆったりとしたテンポは彼女に語りかけていた。正月に現われたときの矢野の笑顔が重複する。孫も元気でやっているようです…と言ったときの眼の印象が忘れられない。律子はいつのまにか引出しから取り出した新しい個展のパンフを手にとって眺めていた。
 二十年も会っていない娘と再会したら…。律子の急激な思いはもういたたまれなく駆けて早速この企てを山村に伝えようと決めた。矢野には内緒にしたい。しかし、果たして彼女の方が何と言うか。
書斎の壁に飾られている「蟹の手」の上を静かにボサノバは流れつづけた。

 場所柄のせいもあって会場内は若者が多かった。こんなことは矢野にとって珍しかった。少しでも自分の絵をこの世代に理解してもらいたいと思っていた。それは三宮で一人デモをやったときと同じ気持ちだった。しかし、大半はただ黙って通り過ぎていく物見草の鑑賞者に過ぎなかった。
期間中、三日目は日曜日と重なっていたため山村は一度会場を覗いてこようと考えていた。矢野の娘である恵がもし訪れるならその日のはずだったからである。律子に頼まれてから矢野には内緒で恵に個展のパンフを送っていた。余計なことだったかもしれなかったが山村もいつかはそうしたいと常々思っていた。矢野と話しているとき感じ取っていたのだ。最終日には律子も東京から駆けつける予定になっていた。
矢野は相変わらず手持ちぶたさの様子で午後からはずっとフロアの隅でパイプ椅子に座り居眠りでもしているかのような眼差しを床面に落としていた。初日から膨らんでいた自分なりの落成の焔は三日目になるとさすがに滅入ったのか半ば放心状態で覆われていた。酒を切らしていたせいもあったかもしれない。
「どないでっか?」
山村は周囲に目を配りながら眠そうにしている矢野に声をかけた。
「あかん。やっぱしここはもうひとつやなあ。若い奴いうてもなんかカップルばっかしや。デートスポットと勘違いしてんのんとちゃうか」
いつもの癇癪がそろそろ出てきそうな兆しだ。山村は苦笑いを浮かべながら隅にあったパイプ椅子を運び矢野の横に並ぶ。これまでも喫茶店とかでやったこともありそんな印象を吐く矢野の言葉が理解できなかった。やはり今回は重大な思惑があったのだろう。
「しやけど、最初の日は二点ほど売れましたやんか。それで上出来や」
二点の購入者はとりもなおさず宗政が買っていったものだ。それは二点ともダンボールの厚紙に描かれたものではなく四号キャンバスに描かれた「三匹のアジ」だった。山村は宗政のことは知らない。満足そうに言ったあと山村は再び会場内を注視した。訪れる人のことが気になってしょうがなかった。午後の客はまばらで白い壁に連なる前衛的な隅の空間にある天窓からやがて降ってきそうな鉛色の雲がけだるそうな影を投げかけていた。
「なあ、山村はんわしもこれでひとつの区切りがつけたと思てまんのや」
気がつくと矢野は焼酎をいつのまにか足元に置いた布袋から取り出して口元に運んでいた。
「戦争はもう遠い昔のこっちゃ。描いて来たこれらの絵に表われている色はもうすんでしまった遠い昔のこっちゃ」
意外とサッパリしている姿を見て山村は戸惑った。急に老いてしまった矢野を見るような気がした。一層孤独な姿を見る思いだ。
「なんでんねんな急に。まだまだこれからも描いてもらわなあきまへんがな」
 励ましの声をかけながらも一方で恵のことが気になった。この機会に娘とあわせてやりたい。それは山村にとってもひとつの区切りのように思えていた。
「なんや降ってきそうでんな。ちょっと缶コーヒーでも買ってきまっさ」
 次第に落ち着いておれなくなった山村は腰を上げ、入口にある自販機へと向かって歩き始めた。
 山村は気づかなかったが入口のすぐ側でなかを遠慮がちに覗っているひとりの女性が立っていた。数人の客が通り過ぎたため山村は視界を遮られてはっきりその女性の顔を見ることはできなかった。女性の視線はパイプ椅子に腰をかけている老画家に注がれていた。頬に伝う涙が光っていた。

最終日、東京から律子も駆けつけその夜は「まどか」で盛大な打ち上げが催された。今夜はママもいて久方の大饗宴となった。何よりも二十年ぶりの娘との再会が話題のすべてを占め木村珈琲店の支配人も国際劇場の刈田も明美も千夏も自分のことのように感激した。カウンターの順ちゃんもいつものように微笑みママも涙をうっすらと浮かべて乾杯するのだった。そんななかで矢野は何度も傍にいた山村に文句を言っていた。
「殺生やで。缶コーヒーをこうて来るわいうて勝手にウソ言うて」
「違うて。なんべんもいうけどほんまに来てはるとは知らなかったんやて」
矢野の声は泣き笑っていた。そんな姿をもう片方の傍に座っていた律子は胸をな
でおろすような気持ちで眺めていた。書いている「神戸の老画家」はこれで読んでもらえるものができあがったと胸を熱くした。でも、締めとして矢野に案内してもらいたいところがひとつ残っていると考えていた。饗宴がすんだら頼んでみようと密かに思った。
「そいでもやっぱし開いてよかったでんなあ」
 結局期間中売れたのは宗政が買い上げた二点だけであったが刈田がしみじみつぶやくと競馬に生き甲斐の木村珈琲店の支配人も熱っぽく声を上げる。
「儲けよりも再会が何よりでんがな」
「でも、親子の絆って感動的やわ」
 自称二十歳の明美もダンサーの千夏も口を揃えて同じことを言い合った。
「まどか」を出たあと山村は先に帰っていったので律子はほろ酔い加減の矢野に頼んでみた。
「ね、いつか話にあったラーメン屋に案内してくださらない?」

 元町ラーメン三平の暖簾をくぐると顔をあげた親爺が吃驚した。律子はにこやかに親爺に向かって会釈し矢野と並んでカウンターの前に座る。他にひとりの年配者がビールをゆっくりと呑んでいた。
「それにしてもまさか山村はんがあんな段取りをしてたとは」
本当は自分がこの話を仕掛けたことを矢野はまだ気づいていない。それが秘密裏になっていることに少し罪悪感はあるがこれでよかったと律子は思っていた。
「でも本当によかったわ。正月に先生がおっしゃっていたことが実現できて」
「おおきに。おかげさんで感謝しますわ」
三平の親爺が不思議そうに二人を見比べながら釜の麺をゆでる。親爺にとって律子は初めて見る顔であった。矢野が去年の暮れ現われたとき話していたあのべっぴんに違いないと思った。
「今回の区切りを境にしてこれからもどんどん描いて下さいね。応援してます」
 律子は「蟹の手」の形象と色彩を思い浮かべていた。自分はこれによって一縷の光明を得たと言えそうだった。そのお礼ができたことを今回のことと置き換えてみるのだった。
「おおきに。ぼちぼちと描いていくことにしまっさ」
 矢野は穏やかにつぶやいていた。三平の親爺が煙草に火をつけた。そして相変わらず二人の会話に耳を傾けるのである。年配者は片隅でビールを空けながら交わされるその光景を見つめるのでもなく眺めその焦点を外したような表情で遮断された自分だけの世界に浸っていた。春の宵が静かに流れた。カウンターの隅に置かれた油まみれの扇風機の風ががたびしの音を巻き上げながらカウンターのうえを這う。壁に掛かった矢野の絵が小さく油で光っていた。暮れに彼が持ってきた風景画だった。律子はこの神戸の老画家の原点となった狭くて薄汚い店を訪れることができたことに満足した。やがて二人の元町ラーメンをすする音がまるで合唱するかのように響き三平の親爺は手持ち無沙汰の表情でただ口を挟むことも出来ずに、にんまりと微笑むのみである。
矢野はしばらく間をおいてから壁に眼をやった。その油で汚れた自分の絵を観賞する。
「黒の集大成は終わった」
 矢野の眼が少し潤んでいた。
「親爺、ごっそさん」
 コップの水を一気に呑み干すと
「すんまへん。今日は持ってきてないねん」
と言いながら矢野はいつもの癖のような手つきを遠慮深そうに親爺に示した。
「よろしま。色紙でんな」
 通じているのか親爺は愛想よく色紙を探し始める。ラーメン代の替わりなのである。「あっ、それは」と言いかけて律子は思わず固唾を飲んでしまった。差し出された色紙を受け取ると矢野は黙って絵を描き始めた。それまで黙って呑んでいた年配者の眼が呆気にとられたようにその光景にみとれた。
再会して娘と何を話したのか。三平の店を出て一緒に歩きながら律子は何度も聞こうと思ったがやっぱり尋ねることはやめにした。尋ねなくても矢野の肩を見ればその内容が読み取れるような気がした。
夜更けの新開地の路地に二人の足音がこだましていた。矢野の肩には安らぎのような風が舞い、その音は幾世も走り抜けたあの荘厳な風の音に似て律子の耳に届くかのようである。



(完)
 

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