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花降り坂

 投稿者:宮内 釉子  投稿日:2009年 3月25日(水)15時48分37秒
編集済
 


 陽が西の山際にかかった。かれこれ夕の七つ刻か。風の唸りがつよくなり、辺りが俄に
冷え込んだ。
山道のきつい下りで京也と数馬は、申し合わせたように歩を速めた。
 ひとひら、またひとひらと、雪が舞い落ちてくる。先を行く数馬のがっちりとした肩が
右に左に揺れている。

数馬の一間ほど後ろを歩きながら京也は、去年のある春の昼下がりのことを考えていた。
 剣術の稽古に長良一刀斎の道場へ行く途中、道場へと続く長い坂道で、京也は雪乃に会
ったのだ。
 鬱蒼とした杉木立の鎮守の森を過ぎてそのまま行くと、「花降り坂」と呼ばれる二間ほ
どの道幅を持つ坂道に出る。

坂の南側には海音寺の低い土塀が続き北側の土手には大きく枝を伸ばした桜の木が何本も
植わっている。昔、こんもりとした土手の下には川が流れていたらしい。だが今は流れも
途絶え、わすかばかりの窪地がそれらしい跡を残すだけで窪地から山の間際までさまざま
な色合いの田畑が連なっている。三町ほどの急な登りの一の坂を過ぎると、道は大きく左
へ曲がり、それからは打って変わって緩やかな二の坂が、二町余り続く。さらに道は右へ
折れ、少し急な三の坂を経て、長良一刀斎の剣術の道場へと行き着けるのだ。

 十四歳の牧野京也は、毎日、花降り坂の三つの長い坂を踏んで、剣術の稽古に通ってい
た。いつもは永瀬数馬と連れ立って行く。が、その日京也は所用で、一人、常より早く屋
敷を出、常より早く花降り坂にかかったのだった。

 花降り坂を埋め尽くす見事な桜の木々の中でも、二の坂にある古木に勝るものはない。
誰もがそう言う。その上道場の門下生達にとっては、その古木はまた別の意味で、特別な
存在でもあったのだ。その古木に、花の降る三日間、同じ時刻に、誰にも見られず願掛け
ができたなら愛しい人への思いが叶うのだと、京也は数馬から聞いた。
数馬は道場の先輩から、そう教えられたものらしい。

 京也は今までその桜の木に痛切な想いの願掛けをしたことはない。
 急な一の坂の上りを越え、道が大きく曲がった所で、京也の足は凍りついてしまった。
前方の緩やかな二の坂に、雪乃の姿を認めたからだ。
 雪乃は供も連れず、手に萌葱色の風呂敷包みを抱えて、桜の古木の下に佇んでいた。薄
紅色の着物に、艶やかな黒髪が映え、髪に挿した簪が、春の陽を受けてキラリと光った。
桜の花を束ねたような白い簪だった。

少し距離があったが、雪乃の姿は瞬時に京也の目の奥に焼き付けられた。
 雪乃が、二の坂で、あの桜の木を見ている。髪に、背に、花びらが降っている。京也は
顔が熱くなるのを感じた。いつの間にか竹刀を持つ手が汗ばんでいる。

 雪乃がゆっくりと視線を京也に移した。突然冷やりとしたものが頬を撫で、京也は思わ
ず唇を引き結んでいた。それは、今まで京也が一度たりと見たことのない、別人のように
きつい眼差しだったのだ。凍り付いた京也の目が、一瞬の後、雪乃の口許に浮かんだ淡い
笑みを捉えた。その微笑が、京也が一つ瞬きをする間に、再び見知った顔へと、雪乃を変
えていた。

 すれ違いざま丁寧に頭を下げ、雪乃は何事もなかったかのように坂を下り始めた。十歩
余り行った所で足を止めて、京也は、今来たばかりの道を、そっと振り返った。濃い紅色
の帯を胸高に締めた雪乃が、坂道を降りて行く。その背に白く、桜の花が散っていた。

 京也の目の前に、幾本も桜が枝を伸ばしている。まだ蕾を持つ枝、今を盛りの枝、すで
に散り始めの枝、花の姿はさまざまだ。
――京也――
 数馬の言葉が、甦ってきた。
――桜の木の枝は、どうして人の手の形をしているんだろう。手を差し伸べれば、指は上
を向く。桜も同じだ。どの枝も、どの枝も、伸ばした枝先は上を向く。

まるで誘う、―― 数馬は少し言いよどんだ。
――た、手弱女のようだ――
「たおやめ」などと言う言葉が数馬の口から出るとは。京也の驚愕に少し顔を赤らめなが
ら数馬は続けた。

――花が咲く、それがいつの間にか青い葉に変わる。気がつけば見事に変わっている。肌
も見せずに衣を変える手弱女のように――
 京也の思いは、そこで唐突に中断された。山道の急な下り、一間ほど先を歩いていたは
ずの数馬が、いつの間にか歩を止めていたのだ。京谷は危うく、その数馬の背にぶつかり
そうになったが、とっさに両手足に力をこめたので、どうやら難は逃れることができた。

「京也……」
 前方を見据えたまま、数馬が言った。
「頼みがある」
 常とは違う数馬の声音に、京也は喉元まで出かかった非難の言葉を飲み下した。
 新春二日目の夕陽は、今や向かいの山の頂きを弱々しく照らしているだけで、四半時も
すれば、二人の立っている谷間の道は闇に塗り込められてしまうだろう。立ち止まると、
足裏に地面の冷たさが増してくる。

「これを食ってくれぬか」
 数馬は背を向けたまま、後ろ手で、竹の皮の包みを京也に向かって差し出した。
「食え、だと」
「むろん俺も食う。頼む」
 不可解な言葉と共に押しつけられた包みは、ずっしりと重い。京也は石ころ道に片膝を
つき、もう片方の膝頭に包みを載せた。包みは、竹の皮を細く裂いて作った紐で、きちん
と結ばれている。その紐をほどくと、包みの中から、大人の拳ほどもある握り飯が二つ、
薄闇の中に白く浮かび上がった。

 京也は目を見張った。
「数馬、おまえ、これをずっと持っていたのか」
「すまん」
 そういいながらも、数馬は前方に視線をやったままだ。そして、ぬっと、後ろ手に右手
を伸ばしてきた。

京也は数馬の掌に、石のような握り飯の一つを載せてやった。
 ところが、数馬は素早くその手を引くと、握り飯を掴んだまま何事もなかったように、
また、山道を歩き始めたのだ。
「待てよ、おい」
 尖った京也の声に、真っすぐに延びた山道の二間ほど先で、数馬が動かなくなった。

「お前、何だって今日、中食を忘れたなどと言ったんだ」
 京也は、今朝の初稽古での出来事を思い出して、つい、責める口調になってしまった。
京也と数馬は、共に、二百石取り、役持ちの家柄の跡取り息子である。二人は幼い頃から
小藩とはいえ準指南役である長良一刀斎の道場で、剣術を学んできた。筋が良いと一刀斎
から褒められもし、熱心に稽古に通った甲斐もあって、京也も数馬も、このところめきめ
き腕を上げていた。

 一刀斎の門下生達は新年二日の日に、二里余り山奥にある道場、碧雲館で初稽古を行う
慣わしとなっている。
この暮れも門下生総出で碧雲館へ登り、一日かけて大掃除をしたのだ。磨き上げた床の間
にしめ縄を掲げ、大玄関に門松を立てた。
それから厨に、薪やら餅やらも、たくさん運んでおいた。

 京也も数馬も他の門下生たちと同様、今朝、暁七つ刻、一刀斎に伴われて山に登り、道
場近くの滝に打たれたのだ。
その滝は真冬でも凍ることはない。凍えきった体を焚き火で温めている頃、新年二日目の
朝日が昇って来た。

それからふた時余りも木刀の打ち込みに励み、その後、門下生達が楽しみにしている恒例
の無礼講となった。
 これは、くじ引きで対戦相手を決め、勝ち抜き戦の試合をする趣向である。籠手をはめ、
面や胴当てを着けて、竹刀で真剣勝負さながらに打ち合うのだ。勝った者は、床の間近く
に山と積まれた褒美の品の中から、望みの物を貰って行く。

最後まで勝ち残ったからと言って、良い品に当たるとは限らない。それが、無礼講と呼ば
れる所以でもあった。
 今日数馬は、師範の長良一刀斎と師範代の長良新十郎を除いて、道場で三番手の使い手
と恐れられている小野友之進から、見事な勝利を収めたのだ。
 所望の品を一刀斎に聞かれた数馬は、一瞬目を伏せたが、すぐ、やや上気した顔を上げ
てこう言った。

「師範代のお中食を頂きとうございまする」
 一同は呆気にとられ、次いで爆笑した。ひとしきり笑いが静まったところで、あれを見
ろ、と小声で誰かが言った。
声に誘われて、各々が床の間へと首を巡らせた。
 床の間の近くにうず高い褒美の山があり、横半間ほど離れて、竹で編まれた手提げ籠が
置かれている。籠の中に、一刀斎と、師範代新十郎の中食の包みが見えた。

 ある物は顔を見合わせ、ある物は小声で私語し始めた。置かれた場所から、手提げ籠も
褒美の品の一つと見えないこともない。
「そなたは握り飯なりと持参しておらぬのか」
 竹籠に入った包みと数馬とを、当分に見比べての一刀斎の問いに「母が用意してくれま
したが、持参するのを忘れました」と数馬は答えた。

 師範代の新十郎は二十三。昨秋一刀斎の一人娘で十六になる雪乃し祝言を挙げ、姓を「
相川」から「長良」へと替えたばかりである。
 雪乃は、控えめでありながら芯の強い、その名の通り色の白い美しい人だったので、密
かに憧れていた門下生は多い。

 その雪乃と、実力、人柄共に申し分のない師範代とは似合いの夫婦だと、今では誰もが
納得している。
「いかが致しましょう」
 その試合の審判を務めた京也が、一刀斎に問うた。 一刀斎は謹厳な表情を崩さず、
「許す」
 そう言ったので、数馬は、師範代新十郎の中食をてにすることができた。

 休憩時、新十郎は、思い思いに弁当の包みを開く門下生の間を抜けて行き、小野友之進
の前にどっかりと腰を下ろした。そして、生真面目に、
「少なくともその半分は私のものだ」
と、友之進の握り飯の包みを指さして言ったので、一同は再び爆笑した。

 中食の後、一同が固唾をのんで見守る中、五番手に新十郎と数馬が対戦した。新十郎は
数馬との間合いを一瞬で詰め、同時に、上段に構えた竹刀を振り下ろした。
「面あり」
 常にも増して鮮やかな師範代新十郎の竹刀捌きに、道場には声にならないどよめきが満
ちた。 冷たい木の床に突っ伏した数馬の背を、京也は、走り寄ってさすってやりたい気
持ちになった。と、同時に、その体を蹴り飛ばしてやりたい衝動にも駆られた。

しかし京也の手は他の門下生と一緒に、静かに数馬の防具を外してやったにとどまった。
 ともあれ、すべての試合が終わって恒例の善哉が振る舞われる頃には、数馬と新十郎は
いつものように屈託なく談笑していた。

「そういうことか」
 京也が言った。急な山道の下りで、数馬は背を向けたまま黙している。雪のひとひらが
黒々とした数馬の髪を滑り落ちた。
「師範代の握り飯はうまかった」

 京也の問いに、ああ、という短い返事があった。やや間をおいて、
「少し塩が甘かったかな」
 振り向いた数馬が、初めてまともに京也の顔を見て笑った。浅黒い顔の中で、きれいに
並んだ歯の白さが際だつ。

 数馬は、自分の手の中の握り飯にかぶりついた。そしてそのまま、もう何も言わず、暗
さを増した山道を下り始めた。
 京也は、茜から藍へと染まって行く夕空を仰いだ。落ちてくる雪のひとひら、ひとひら
が、花びらに見える。

 花降り坂の桜の古木に、雪乃は何を願ったのだろう。
 善哉で満腹していたが、京也も、手にした握り飯を口にした。歯にしみるほど冷たい。
喉の奥がムズムズした。
残りを口に放り込み、京也も歩を早めた。

 昼間、数馬の喉に消えて行った師範代の握り飯と、それを握ったであろう雪乃の、白い
指が思われた。


                   終わり



 

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